[写真] 写真について思ういくつかのこと
奥様のmixiの日記に写真についての記事があって、
周りの写真好きがこれでもかと色々コメントをしていた。
奥様は写真ってよくわからなくて苦手、と言っていて、
一般にすごいといわれている人の写真集を見てみても、
何がすごいのやら、やっぱりよくわからない、と。
好きなのがないわけでも、いいなあ、と思わないわけでもないけど、
なんだかよくわからないや、と。
それにコメントを書こうと思ったらやけに長くなってしまったので、
そのまま記事としてのせることにしてみました。
「これがコメント?」てくらいの長さになっちゃいました。
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写真って、他のあらゆる「芸術作品」に比べると、取っ掛かり易い分「創作性」みたいなものは浅くなりますねえ。
もちろん、手法的にいろいろ作ったりすることは可能なのですが、それを別として、基本的にはうつり込んでいるのは「事実」なわけですからやはり「記録」としての側面は拭えないでしょうねえ。
京都で一人暮らしするときに、
家で眠っていたニコンの一眼レフを引っ張り出してきたのが最初で、
それからなんだかんだとややこしいことをするようになったわけですが。
ある意味では、「詩」に近いのかなあ、という気がします。
それは言葉の羅列でしかなくて、しかも散文的でコンテキストが弱い。
独りよがりなようでありながら、メッセージや世界観、作り手側の意思みたいなものは重たいくらいに組込まれておりまして。
「愛」というのは、視点であり、視線であり、まなざしや感情みたいなものを一瞬閉じ込めて殺してしまうわけで、そう言った永遠とか時間とか、訳の分からない実体のない概念をそこにこそっとありのままを記録しちゃうわけです。
それはもう、「そこにあるもの」しかうつらないわけで、だからこそ「写真家」の皆々様は、感情や記憶や、そういう「そこにないもの」を写し込むべくせっせとがんばっておるわけです。
ちなみに、僕が図書館で見てごらんと提示したやつは、
・message - 佐内正史
・畠山直哉
これ、畠山直哉はまだしも、佐内さんはわからんよねえ。
ちなみに、誰かに借りパクされた「message」は、
自分の心象風景というか、その時の心情というか、
そういうのにそっと寄り添うようなそう言う感じがあったのです。
その時の気持ちを言葉で説明する事も出来るけれど、
なんというか、しっくりとくる文章にまとめることはすごむ難しくて、
いっそのこと詩の方がそれを説明するのは簡単なんじゃないだろうか
とか思えるようなそんなような状態の時に写真集にであったのです。
なので、なんというか、技術や構図や理論とかを省いてみて、
感情に寄り添うことができるのは、やっぱり写真なのかなあ
と思うわけです、わたし。
遠くの国や街を旅してるときに、
自分が感じたことや思ったこと、感動した景色、
そう言うのを伝えたい、誰かと共有したい、と
そう言う感情がやはり僕の中にはあって、
それは言葉で伝えるというよりは、写真の中に閉じ込めることで
なんというか自分的にはすごくしっくり来るというか、
なんかそう言うようなことだったりするわけです。
饒舌でも親切でもない、他人が撮った写真は、そこにあるものやそこにないものを伝えたり、考えさせたり、感じさせてくれたりする、ってわけです。
言葉足らずな分、よけいに、というかなんと言うか。
まあ、なんというかそう言うことだと思います。
1 件のコメント:
ま、そういうことだわなあ。僕は、もし絵がかけるなら絵を描くだろうと。かけないから写真で。
写真は加工すれば、そこからは絵の領域で、絵は写実であるより内面の発露であるべきだと思うので、より「自分」というものに針が振れますね。
僕は写真を目の前にして気持ちを伝えるときに言葉で補足するから写りのよしあしは自己満足以外には問いません。切り取るという行為は、僕は実はすごく恥ずかしくて、いまだに動揺しながらシャッターを押していますね。
人の撮った写真については、雰囲気のある写真よりも被写体の面白さが際立つ写真が好きですね。
自分の思いを凝縮するには、切り取っただけでは足りないというのが今のところの結論です。そして、あくまで自分より被写体優先。枚数優先。絵は描かないということです。時間をとどめておく装置としては、他にないツールだと思うのでこれからもパシャパシャと行くつもりですが。記録に記録を重ね記憶に昇華できたら大切な人の心に寄り添う一枚がきっとあるはずだと。
それにしてもレンズよ。やっぱりええのん欲しいよなあ。
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